建築家 宮崎晃吉

“最小文化複合施設”HAGISOを築く 【第1回】

Part.1of 3

クリエイティブによるソーシャルグッドには、どんな可能性があるのだろう――。
シリーズ「ソーシャルグッドで社会を動かす」は、クリエイターによる、クリエイティブを手段とした社会貢献活動をご紹介する企画です。

第2弾にご登場いただくのは、東京都台東区谷中の最小文化複合施設「HAGISO」を運営する建築家、宮崎晃吉さん。
本企画では、建築家である彼のソーシャルグッドな取り組みを全3回に分けてご紹介します。

第1回では、宮崎さんの幼少期や学生時代のエピソード、独立された経緯や「HAGISO」に込めた想いになどについて伺いました。

宮崎晃吉が建築の道へ進むまで

消費文化に取り込まれていったふるさと

――宮崎さんの幼少期について教えてください。
父がもともとプロのピアニストだったんです。大学でピアノを教えていたんですが、ある時退職してしまって。
何があったのかは僕もよく知らないんですが、父からは「組織がいかに信用できないか」という話をとうとうと語られましたね。会社や大学は役に立たないぞ、と。ようは、ただ言われたことをする人生を送るんじゃなくて、「自分の力で何かをやれ」ということを父は教えたかったのかなと思います。

――ご出身は群馬県ですよね。どんな街でしたか?
前橋市で育ったんですけど、僕が成長していくにつれて中心市街地はみるみる衰退していきました。反対に、国道沿いにはどんどんショッピングモールが建っていったんです。群馬は世帯あたりの車の保有台数が日本でトップクラスなんですけど、買い物をするにしても、家とショッピングモールをドア to ドアで車で移動するから、中心市街地を歩く人影は本当に少なかった。街としての魅力がなくなっていくことに対して嫌気がさしていた部分はありましたね。
あと、小さい頃にあった映画館がなくなったりもしました。一時は映画館のない日本で唯一の県庁所在地になったほどです。そんなふうに文化が枯渇していって、消費文化に取り込まれていった街が僕のふるさとですね。今思えば、そのとき子どもながらに感じていた“衰退する街に対するつらさ”みたいなものも、現在の仕事や活動につながっているのかもしれません。

巨匠・安藤忠雄にインスパイアされた高校時代

――宮崎さんが建築家を目指された理由を教えてください。
昔から単純に絵を描くのが好きだったんですけど、だからといって「絵描きとして食べていこう」と決断するほどの思い切りはなかったんです。ただ、できることなら自分の得意分野を仕事にしたいとは思っていました。数学が得意だったので、それと絵をかけ合わせたら何になるんだろうな? と高校のときに考えたんです。それで“設計=建築”という選択肢が導き出されました。

――宮崎さんは東京藝術大学の建築科ご出身ですが、高校時代からそこを目指されていたんですか?
高校は群馬県の前橋高校で、いわゆる進学校だったんですが、完全に落ちこぼれだったんですよ。授業をさぼって遊んだりして(笑)。だからいい大学に行けるとは思ってませんでした。でも、芸大だったら絵がうまければなんとか行けるんじゃないかと思って、そこから美術予備校に通うようになって、建築の勉強を始めました。

――高校生だった頃に影響を受けた建築家はいますか?
安藤忠雄さんですね。彼の『建築を語る』という本には感化されました。あの人は頼まれてもいない設計を勝手にやっちゃうんですよ。それをオーナーに売り込みに行くことで、いくつも仕事を取っていたそうなんです。
「六甲の集合住宅」という建築物があるんですが、知ってます? それをつくったとき、勝手にとなりの敷地の図面を書いて、敷地のオーナーに「こういうのをつくりませんか」と持っていったそうなんです。結局は断られたらしいんですけどね。でも、与えられたオーダーや枠組みにとらわれない発想とか、実際に行動していく姿勢はかっこいいなと思いました。安藤さんは僕にとっての建築家の入り口ですね。

名門・東京藝術大学の建築科へ

仲間と切磋琢磨しながら建築を追求した日々

――宮崎さんが進学した東京藝術大学の建築科はどういう雰囲気だったんですか?
1学年15人、4学年合わせても60人近くしかいなかったから、学科全体が家族みたいな関係でした。五浪・六浪している人たちもけっこう多くて、学年が下でも年上だったりするわけですよ。だから、関係性も堅苦しくなくてフレンドリー。それでいて切磋琢磨できる環境でしたね。でも友だちは変な奴らばっかり。

――変な奴らというのは?
とにかくみんな酒が好きでしたね。奨学金をもらっていたんですが、ぜんぶ酒に消えたんじゃないかってくらい飲んでました(笑)。
でも、学校の課題は死ぬ気でやるんですよ。先生の評価はわりとどうでもよくて、僕らのなかでの競い合いに勝つために、っていうのが大きかったと思います。「あいつのここにヤられた!」みたいな、点数では測れない部分を気にしていましたね。だから課題の提出前は徹夜です。そして提出が終わったらそのまま飲みにいって、ひどいことになる(笑)。

――どんな研究をされていましたか?
研究と呼べるほど体系化されたものではなかったです。とにかく“建築”っていう漠然としたものがあって、それが自分にとって何なのかをひたすら突き詰めていました。仲間とはいちいちアツくなってましたね。「お前にとっての建築って何なんだよ!?」と討論することもありました。

――宮崎さんにとっての建築とは何なのか、わかりましたか?
建築はモノだけでは意味がない、という考えに至りました。今もあんまり変わってないんですけど、「どういう人がどういうアクティビティをするか」という部分まで考えるのが、建築における重要な要素だと思うようになりました。
例えば、別々の場所に同じ建築物をつくったとしても、利用者が抱える文化的背景が違えば同じようには機能しないだろうということですね。

――大学生のときはどんな建築家になりたかったですか?
キレッキレのデザイナーになりたかったです。アトリエ系ってやつですね。作家性があって、センセーショナルなものをつくる建築家に憧れていました。

――具体的に憧れていた人はいますか?
昔の人にも憧れていたし、先輩にもおもしろい人がいたりしたんですけど……僕らの世代のみんなが憧れていたのは、レム・クールハースというオランダの建築家ですね。
それと、ちょっと上の世代の中山英之さんや石上純也さん。藝大のOBで、今も大学で教えている方たちです。その世代はやたら有名人が多いんですよね。そういう“世代のカッコよさ”に憧れた時期もありました。

学生時代に暮らした「萩荘」のこと

萩荘は“生きている実感”を与えてくれる建物だった

――宮崎さんが現在運営されている「HAGISO」は、改修前は「萩荘」というアパートだったんですよね。
はい、昭和30年に建てられた古い木造アパートでした。誰も住んでない空き家だった萩荘を後輩が見つけて、大家さんに貸してくれないかと交渉したんです。それで了承をもらって、2004年頃から学生が住み始めました。当初から僕もちょいちょい遊びにいっていたんですけど、2年くらい経った頃に部屋が1個空いたので、自分も住むことにしたんです。

――学生が個々に住んでいるというよりもシェアハウスに近い雰囲気だったそうですが、当時の萩荘はどんな空間でしたか?
一言でいうと、“ゴミだめ”か“たまり場”。リアルなゴミがその辺にうずたかく積まれていたし、帰宅したら知らない人が酒を飲んでたなんてこともありましたよ。でも、だからこそ“生きている実感”が湧いてくる場所でもありました。
東京は特にそう感じるんですが、人が建築に「収納されているな」って思うことがあるんです。用意された「ここからここまで」という境界からはみ出さず、そのなかにストンと人が収納されているような感覚。でも、萩荘に住んでいたときはゴミも領域も人間関係もはみ出していた。だから生きている感覚が得られたんでしょうね。

――コミュニケーションが活発だった、ということでしょうか。
別に社交的な連中じゃなかったから、誰でもウェルカムな雰囲気だったとはいえないと思うんです。でもある意味、自分の生活の一部を他人に依存しても許される環境ではあったんですよね。“シェア”って言っちゃうとそれまでなんだけれども。
ようするに萩荘は、さっき言ったような「人がただ収納されている建物ではなかった」ということです。建物に行儀よく収まる必要なんてないというか、むしろはみ出していたほうが生き生きする。萩荘での生活は、そんなことを思わせてくれた体験でしたね。

――はみ出していたからこそ、仲間たちと信頼しあえていたんですね。
聞こえがよくなると否定したくなるのはなぜなんだろう(笑)。あるとき警察から萩荘に空き巣が入ったと連絡があったんですよ。たしかに小銭を集めた瓶がなくなった直後だったんですけど、そのとき僕らは「アイツだと思うんだよね」「でもアイツだから、まあいいか」と納得して事件を完結させてたんです。でもあとになって、それが本物の泥棒だったと判明したわけです。
つまり、信用はしてなかったんだけど、「まあいいか」と思えたという意味では信頼関係を築けていたという、よくわからないけれどいい関係でしたね。

3.11がもたらした思考の変化

自分と地続きの場所で、建築に関わりたい

――独立された経緯を教えてください。
独立を考えたのは、事務所に勤めてからちょうど3年経った2011年の3月でした。「石の上にも三年」と言うし、キリがいいかなと思ったんです。
独立するまでの主な仕事は大規模建築の設計でした。まだ経験が浅い僕みたいなスタッフにもありえない規模の設計をチャレンジさせてくれたので、すごく貴重な経験をさせてもらったなと感じています。
けれども一方で、自分が携わる建築の必然性のようなものをどうしても掴めないまま仕事をしている側面もあったんです。日本の公共建築って、本来的な意味での公共空間として活用されてないじゃないですか。ただの“箱”としてお荷物になってる多くの建物を目の当たりにしてきた世代としては、いったい誰のために、何のためにつくっているのかをリアルに感じたいと思ったんです。

――2011年3月といえば、東日本大震災が起こった時期ですね。
はい、震災で自分の考え方が変化したことも独立を決めたきっかけになっています。当時は中国で巨大プロジェクトに携わっていたんですが、震災のあとに「ここでこんなことやってる場合じゃないんじゃないか?」という気がしてきたんですよ。
つまり、中国という場所が自分と地続きになっていないことが気になってしまったんですよね。文字どおり地理的にも、僕が生まれ育ったというルーツ的な意味でもつながっていない。だから“自分と地続きの場所”で自分に何ができるか確かめたくなったんです。それも独立を考えるようになった大きな理由ですね。

人間と同じように、建物にもお葬式を

――萩荘の取り壊しが決まったのも、東日本大震災の影響だったそうですね。
震災のあと、老朽化が心配だから萩荘を解体するという話を大家さんから伝えられました。僕を含め、かつての住人たちはほとんど就職していたのですが、「愛着のある場所が取り壊しになるのはさみしい」という意見が出て、萩荘に別れを告げるセレモニーを開くことになったんです。

――それはどういうイベントだったんですか?
「ハギエンナーレ2012」と題して、取り壊しを前提に萩荘全体を使って展示会を行いました。イベントのコンセプトは“建物のお葬式”。僕はオーガナイザーと作品制作を担当しました。
壁にビスを打ったり、床を壊して吹き抜けにしたり、それぞれが自由に作品をつくっていましたね。展示期間は約3週間だったんですが、SNSでの呼びかけの効果もあって1500人ぐらいの方が来てくれました。

――宮崎さんの作品はどんなコンセプトだったんですか?
作品名は『最後の住人』。コンセプトは“終わりの表現”ですね。とりあえず自分の部屋の床を壊して廃墟感を演出したかったんです。で、そこに鳥を住まわせて、僕のベッドを糞まみれにしてもらいました。
つまり、「この場所は終わっていくんだ」と実感するために、つくるのではなく壊すことによって作品化したかったんです。

――「ハギエンナーレ2012」でお客さんに感じてほしかったことは何でしょうか?
「記憶に留めてほしい」という意図が一番ですかね。人が突然死したり孤独死したりしている世の中だけど、建物も同じなんですよ。昨日まで何かが建っていた場所が突然更地になっていて、けれどもそこに何が建っていたかは誰も思い出せない。よくあることかもしれないけれど、誰の記憶にも残らず、ただ消えていくのってむなしいじゃないですか。

――展示会を終えてみて、成功した理由は何だったと思いますか?
やっぱり、「このときにしか見れないもの」っていうのが興味を引いたんじゃないですかね。それと、3.11が東京にどんな影響を与えたか、ということをみんな知りたかったのかもしれません。このイベントを行ったのは震災からちょうど1年後なんですけど、実際に萩荘も地震がきっかけで取り壊すことが決まったわけなので。
まあ、そこまでのことは考えていなくても、もともと萩荘に興味を持ってくれている人も多かったんだと思います。毎晩のように飲んでは騒いでいたわけですから、近所の人からすれば怪しい場所だったでしょうね(笑)。「お前らは結局何をやってたんだ?」という感じで足を運んでくれた近所の人たちもいましたよ。ともあれ僕自身、あれだけの人が来てくれたのは驚きでした。

最小文化複合施設「HAGISO」の誕生

“箱”の機能しか持たない建築物は、むなしい

――アパートの「萩荘」が「HAGISO」として生まれ変わった経緯を教えてください。
大家さんが「ハギエンナーレ」でたくさんの人が萩荘に訪れた様子を見て、「壊すのはもったいないかな」と呟いたんです。そこで僕はすぐに事業計画書を書いて、萩荘のリノベーションを大家さんに提案しました。大家さんは「ハギエンナーレ」の成功を見て僕を信頼してくれたようで、ありがいことに提案を受け入れてくださったんです。

――HAGISOではカフェやギャラリーといった複数の機能が内包されていますよね。リノベーション後の活用方法が独特だと思うんですが、どこからヒントを得たのでしょうか?
出張で上海に滞在した経験がもとになっています。上海ってスクラップ&ビルドで都市開発が行われているんですけど、一方で古い建物をリノベーションして、うまく活用している面があるんです。例えば、屠殺場の構造をうまく利用して複合施設にリノベーションしたり、防空壕をナイトクラブにして人が集う場所にしたり。でも、東京にはそういう面が本当にないんですよね。

――では、宮崎さんにとって東京とはどんな街ですか?
すごくフォーマルな街で、みんな“いい子”ですよね。安全ともいえるけど、逆にすごくルールに従順で、はみ出さないというか。“統制のとれた街”という意味では優れていると思うんですけど、それだと僕はつまらないし、あんまり生きてる実感が湧かないんですよね。
例えば、部屋を探すときは間取りや家賃を見て決めますよね。でもそれらは交換可能な要素でしかなくて、部屋自体は誰にでも適用できる“箱”としての機能しか果たしていない。そこに住むっていうのが「ただ収納される」だけの感じがして、表面的でどこかむなしいなと僕は思っています。

ちっぽけな建物で、大きな価値観を覆したい

――HAGISOを“最小文化複合施設”と称されていますが、どういう狙いがあるんですか?
設計事務所に所属していた頃は3万平米の公共施設とかに関わっていたんですが、それと比べたら150平米の建物ってショボいじゃないですか。HAGISOのリノベーションは建築家の仕事として“ちっぽけ”なプロジェクトなんです。それを「自虐的に逆手に取る」というのが戦略としてはあります。

――具体的にどんな戦略なんですか?
HAGISOの公式サイトに東京タワーと比べている絵を載せているんですけど、「どうだ、肩並べてるだろ」って言いつつも、すごく自虐的に見えませんか? それはきっと「東京タワーのほうが価値があるでしょ」っていう“大きな価値観”があるからだと思うんです。「東京タワーとHAGISOならどっちに価値があるか?」と問われたら、多くの人が前者だと答えると思うんですけど、僕はそういう認識を覆したいんですよ。
そのために自虐性を逆手に取り、まったく規模の違う2つの建物をあえて並べて見せることで、「本当の価値とは何か」を問うているというか、「僕が思う価値はこうだ!」と主張しているというか。“最小”と言いながら“文化複合施設”というけったいなものと接続させているのもそれと同じで、大きな価値観を転覆させるための戦略なんです。

――HAGISOはどんな複合施設なんですか?
カフェやアートギャラリー、ホテルのレセプションやショップ、設計事務所などが内包されています。ただ、巨大資本でつくられたような複合施設とか、お互いに干渉しないテナントが密集した雑居ビルとは違う、“有機的なつながり”がある場所です。
例えば、ふらっとお茶をしに来た近所の方と、ギャラリーで作品を展示している若い作家のあいだにコミュニケーションが生まれたりするんですよ。規模は小さいかもしれないけれど、谷中の文化拠点として機能できればと思ってます。

“プロセスのデザイン”で共感者を増やす

――萩荘を改修するにあたりクラウドファンディングを活用されたそうですが、資金集めのほかにPR的な目的もあったんですか?
そうですね、むしろ広報的な意味合いのほうが大きかったです。個人の顔が見える状態で応援してくれる人たちがいたことで、ファンづくりのきっかけになりました。
90人くらいの方に支援いただいたので当時にしては多かったと思います。単に「資金を集められてよかったな」という結果よりは、そのプロセスでさまざまな人との関係性をつくれたという事実のほうが重要ですね。

――工事中のプロセスも大事にしていたんですか?
そうですね。大工さんに発注するだけじゃなくて、知り合いに声をかけて改装工事を一緒にやったり、イベントも何回か開催したりしました。その現場でしか体験できないことがあると思ったし、完成後だけじゃなく過程も見てほしかったし。
プロジェクトのゴールももちろん重要だと思うんですけど、やっぱり「プロセスをどういうふうにデザインするか」っていうのがすごく大事なんじゃないでしょうか。プロセスを共有する人たちが増えると、プロジェクトに共感してくれる人も増えるんだと思います。

――ありがとうございました。

第2回につづく。

  • 植村忠透
  • アートディレクター
  • 佐々木香菜子
    UPDATE:
    ソーシャルグッドで社会を動かす
    建築家
    宮崎晃吉

    宮崎 晃吉 Mitsuyoshi Miyazaki

    宮崎晃吉(みやざき・みつよし)
    1982年、群馬県生まれ。株式会社HAGI STUDIO 代表取締役/建築家/一級建築士/東京藝術大学 建築科 非常勤講師。
    東京藝術大学大学院修了後、アトリエ系設計事務所での勤務を経て、2011年の東日本大震災をきっかけに退社。2013年、解体予定だった東京都台東区谷中のアパート「萩荘」を改修し、最小文化複合施設「HAGISO」として甦らせる。現在はフリーランスの建築家として活動するほか、全国各地で開催されるリノベーションスクールの講師を務め、豊かなまちづくりに貢献する。