milieu編集長 塩谷舞

「豊かなクリエイティブを発信する」【前編】

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クリエイティブの未来を担うのは、きっと、クリエイターの心を揺さぶるクリエイター――。
シリーズ「次代を創るプロフェッショナル」では、クリエイティブの世界でひときわ強い存在感を放つ、いま注目のつくり手たちをご紹介します。

今回ご登場いただくのは、「THE BAKE MAGAZINE」の編集長であり、オピニオンメディア「milieu」を立ち上げた、しおたんこと塩谷舞さん。本企画では“エモくバズらせる”執筆を続ける塩谷舞さんの魅力と、空と水のデザインが目を引くオピニオンメディア「milieu」について、前後編に分けてご紹介します。

前編では、子ども時代から、クリエイターとしての転機が近づく頃のお話を伺いました。

「気にしい」な塩谷舞

肩身の狭い子ども時代、私はネットで息ができた

――どのような子ども時代でしたか?
子どもの頃から本当に運動が苦手で。50メートル走も15秒くらいで、運動に関しては何をやっても出来が悪かったんです。小学生時代って、そんな子はちょっと立場がないですよね。学校では運動ができる、もしくは面白いことが言える、という子が偉かった。大阪だから、地域性もあるのかもしれません。私はピアノをやっていたりミュージカルに出ていたり、少しだけ事務所に入って子役もやっていたりして、芸事は結構得意だったんです。でもこの分野って学校ではあまり認めてもらえないんですよね。

――小学校って、文化的であるより、運動できて面白いかが大事ですよね。
それでパッとしない子でしたね。ただ小学校4年生の時に、実家の座敷にWindows95がドーンと登場して、自由に使わせてもらえるようになったんです。父がパソコンオタクで、パソコンを買う前から2年くらいずっと、パソコン専門誌を購読してたんです。家にパソコンがないのに(笑)。当時のパソコンはいまと比べると超高額でしたが、やっと母の許しを得て、満を持して購入の運びになって。私もうれしかったです! 家にはTVゲームがなかったので、ゲームをする感覚でパソコンをはじめました。

電話回線でインターネットに接続して、小学生のためのポータルサイトでお絵かきを投稿したりしました。きっと、そのサイトに集まっている子たちって、私みたいに学校ではあまりパッとしない子が多かったのかもしれない(笑)。そこには絵や本が好きな子も多くて、共通の話題があり、すごく良い友達ができました。

――学校ではできない会話ができた?
はい、東北や九州の友達とやりとりしてました。みんな文章が上手だし、私がつくったものに対して意見をもらえるし、文化的なことへの理解度が高い。なので私はインターネットの第一印象が本当によかったんです。「インターネット=匿名で悪口を書くところ」みたいな印象が出てきたのは、それよりもずいぶん後のことでした。

当時は絵を描いたり文章を書いたり、それを発表して、意見をもらって。そんなコミュニティが小学生同士でできていました。学校では運動ができないコンプレックスで肩身が狭かった。ネットがあって救われたな、と思っています。

つくると、周りに認めてもらえる

――絵を描くのがお好きだったんですか?
好きですね。小さい頃から絵を描くのが少し得意で、運動ができなくていつもクラスメイトからは格下扱いなのに、絵を描くと「あれも描いて、これも描いて」とちょっと認めてもらえるんです。それがうれしくて。

ネットなら良いものをつくったら、誰かに取り上げてもらえる。小学生の頃から素材屋さんのようなサイトをつくってランキングに登録したら、どんどんアクセスが増えて楽しかったです。ランキング上位のかわいいサイトのHTMLをまねして、試行錯誤しながらサイトをかわいくしたりしていて。小学校から帰ったら、ピアノの練習をサボッて没頭していました。

小・中学生の頃に作っていた待ち受け画面やイラスト

――小学生でHTMLが扱えるなんてすごいですね。
最初はプロバイダの無料ホームページサービスを使ってたんですけど、あんまりテンプレートがオシャレじゃなくて。素材屋さんはサイトデザインが命だから、自分でHTMLを組んでつくり始めたんです。当時のHTMLって超簡単で、CSSもまだなかったので、直感的に積み重ねて1個のファイルで完成するんです。アレとコレの組み合わせでもっとオシャレにできる! という感じが楽しくて。

中学時代にはペイントで携帯電話の待ち受け画面をカリカリ描いて、友達にプレゼントしていました。それでスクールカースト上位の女の子たちにこびていたんですよね(笑)。GIFアニメにしたり、自分は持ってない機種の大きな待ち受けもつくったりして。いまでも「実家Windows」っていうフォルダに、化石みたいなデータがいっぱい入っています。とにかくコツコツつくって喜んでもらえるのが、うれしかったんです。

人の顔色を伺うのは、「広告的」なんです

――学校での周囲の目が気になっていたんですね。
周囲の目ばかり気にしていました。小学生の頃からパソコンのタイピングが超速かったのですが、当時はパソコン=オタクのイメージが根強かったので、オタクレッテルを貼られないようにパソコンの授業中にはゆっくりタイピングしてました。わざと3番目くらいになるよう待つとか。

私は三姉妹の末っ子で、お姉ちゃんたちは強いし、幼なじみは運動のできる男の子か、気の強い女の子ばかり。
真正面から意見を言える立場ではなかったので、ずっと周囲の顔色を伺って、ちょっとでもみんなに喜んでもらえるようなことを頑張っていました。ただ、これってきっと“広告的な考え方”に近いのかもしれない、と最近思ったんです。広告には誰かに気に入ってもらいたい願いや、課題を解決するという力がある。昔から、自己表現より課題解決の方が好きだったなぁ。

塩谷舞が伝えたい才能

“声を上げる目利き”でいたい

――高校でも絵を描くことは特別だったんでしょうか?
そうですね。ただ、その頃には私も同級生から「一人前」に扱われていた気がします。高校では運動のプライオリティが下がって、オシャレか、コミュニケーション力があるか、個性的か、という部分が重要になってくる。だから入学してすぐに茶髪にして、オシャレして(笑)。いわゆる高校デビュー、というやつですよね。生徒会もやっていたので、先生からは「修学旅行の冊子の表紙を描いて!」というような絵のオファーがいっぱい来るし、友達からは「すごいすごい!」って褒めてもらえてうれしかったですね。

でも、美術の授業で一緒になった、すごく絵の上手い男の子がいて。わかりやすく説明すると、私が偏差値60だとしたら彼は90くらいの実力。これはプロの域だと思って、めちゃめちゃ尊敬していました。ただ彼はあまり目立たない人で、私が彼の才能を賞賛しても、周りに「どうして? 陰キャラなのに」と不思議がられるんです。

――疑問を感じていたんですね。
それってすごく、おかしいなって。絵を描く場面は私ではなく彼に仕事が回るべきだし、彼の上手な絵が見られないのは、みんなにとっても損失だと思ったんです。私はそこそこ絵を描けるから「誰が本当にすごいか」の目利きができる。才能を持っている人を理解したり、腕前を見抜ける誰かが声を上げたりしないと、せっかくの良いものが埋もれてしまう。

――美大受験を考えたのは、さらに目利きの力をつけるためなんでしょうか?
それまで美大って絵描きになる場所としか思ってなかったんですけど、高3の秋に土壇場で進路に悩んでいた頃、美術の先生に京都市立芸術大学の「総合芸術学」という学科を教えてもらったんです。サイトを見ると、学芸員や編集者など、美術を発信したり、支える人材を広く育てる……と書いてありました。総合大学でマーケティングを学ぶ予定だったのですが、芸術学を知ってこれだ! と。

試験はデッサンと着彩・色彩という実技のほかに、小論文とセンター4教科が必要でした(当時)。そのうち数学と漢文は勉強してなくて、ヤバイなと焦ったのが高3の11月(!)くらいです。それから泣くほど勉強してセンター試験を突破し、デッサンは絵の予備校で猛練習しました。いま思えば、その頃Twitterやっていなくて良かったです。「この二次関数わからん! 解ける人誰かリプくれー!」とかやっちゃってたと思います(笑)。

塩谷舞がつなぎたいもの

頑張って、挫折して、認められるまで

――受験をものすごい集中力で乗り切って、いざ美大に入学してからは、どのような生活を送っていましたか?
周りは1年も2年もかけて絵の勉強しているけど、自分はたった1カ月の準備期間で「まぐれ」で受かってしまったので、入った瞬間に自信を喪失しました。専攻関係なく、美術学部1年生全員のデッサンの授業があるんですけど、先生から下手だと言われて。クラスメイトに見られるのも嫌で、ずっと隠れて描いていました。

ただ、入学して半年くらい経過したときに、学内の情報が流通していないことにストレスを感じました。
せっかく学内のギャラリーで良い展覧会をやっていても、情報が行き届いてなくて、人が入らない。それをもどかしく思いながらも、自分のスキルも自己肯定感も低かったので、同級生相手に建設的な話を持ちかけられない。それでバイトとデートばっかり行くようになっていました。そんな中で、大学で初めて認められたと思えたのが、2年生のときの芸大祭で企画したファッションショーです。

やり始めるとあれもこれも気になって、良いものができて、さらに頑張る

――ギャラリーではなく、ファッションショーを?
はい。1年生のときにモデルとして参加させてもらったのですが、つくり手が運営も兼任されていたんです。作品一つひとつはおもしろいのですが、全体のコンセプトや段取りをもっとまとめていく役割の人が必要だな、と思いました。「クリエイター」と「プロデューサー」の違いを感じたんです。私は運営や広報といったプロデュースがやりたかったので、2年生になって友人とファッションショーを主催することにしました。子どもの頃にミュージカルをやっていたから、ショーという舞台の運営にその経験を生かせるだろうなという考えもありました。

香りをテーマに4部作のショーにして、クリエイターは主催側からスカウトして、PRにも力を入れました。スカウトした人たちを教室に集めて、コンセプトを最初にしっかり伝えてからそれぞれ衣装をつくってもらったり。さらに音楽も選んで、映像は得意な子に依頼して世界観に合わせて制作してもらったり、ヘアメイクも専門学校生に頼んだり……。適材適所で役割を決めて、とにかく枠組み作りを頑張りました。そしたらその年の芸大祭で一番多くのお客さんに来ていただき、つくり手の人たちもすごく感動してくれて。芸大にいるのはほとんどが「つくりたい」方なので、あまり運営や広報はやりたがらないんですけど、私はそれがすごく楽しかったんです。

それが学内で初めて認められた出来事だったんですが、一歩外に出ると他の大学はもっとプロデュース力が高くて、ちゃんとクリエイティブ業界とつながりがあったりするんです。それで、せっかく良いものをつくれるんだから、もっと外の刺激があればより良い環境になるのでは? と感じました。学内の友人を含めて関西美大生団体「SHAKE ART!」を立ち上げて、イベント開催と雑誌の発行を始めました。

――「SHAKE ART!」を始めて、どのような学びや変化がありましたか?
「美大生で作品をつくる子はたくさんいるけど、こういう子はあまりいなかった」と、クリエイティブ業界ではたらく大人の方々から珍しがっていただき……それがうれしくてまた頑張っていました。美大ってプロデューサー不在の問題が大きくて、やればやるほど喜んでくれる人も増えるし、ニーズがあって社会にも直結していきました。「うちの商業施設にアートを飾りたいから、アーティストを紹介してくれませんか?」といったお仕事をいただくようになりましたね。

SHAKE ART!のメンバーは関西ばかりでしたが、メディアとしての発信力をつけるために東京や、全国で配布していました。100冊くらいのフリーマガジンが入ったキャリーケースを引いて表参道とか青山のギャラリーを訪ねまくって。そこで出会ったギャラリストさんの多くとは、いまでもご縁が続いていますね。
SHAKE ART!という雑誌は、色んな人の自己紹介になる場だし、誰かのメッセージを載せることで課題解決もできる。誌面に取り上げた方々が、自分の自己紹介ツールとしてこの雑誌を利用してくれて、それが村上隆さんに届いたり、ギャラリストや編集者、様々な方の目に届いたり。そうすると、取材した方々がより大きなメディアや、大きな組織に声を掛けられていくんです。そんな最初の「発掘」を手がけられることは、とてもやりがいがありました。

「デザインってすごい!」と思ったのもこの時期です。SHAKE ART!はクリエイティブのスタッフがすごく優秀で。しっかりデザインされた紙面だと、伝わる第一印象がまるで違うんです。その後の読みやすさにもつながりますしね。それに、良いデザインの媒体資料があるだけで、「この子本気だな」って思ってもらえる。学生だからこそ余計に、自分たちを立派に見せるためのデザインは重要でしたね。

塩谷舞の進み方

自分の半径を広げたい

SHAKE ART!広告概要書の表紙

――SHAKE ART!での経験が、就職にもつながったのでしょうか?
そうですね、SHAKE ART!を発行していて、「この活動は素晴らしいから、ビジネスとして続ければ良いのに」と言ってくださる方もいたのですが……。やっぱり、関西の美大生学生だけの狭い世界で始めたところだったので、一度そこから脱皮したい、という思いがありました。あと、自力で1万部を配っていたので、「紙媒体は重すぎて、もう無理!」とも(笑)。これから発信していくにはインターネットだろうな、ということも考えていました。
そこで「アート」と「Webメディア」をやりながら、ちゃんとマネタイズできている会社を探していたところ、CINRAという会社を教えてもらって。「私、即戦力です!」みたいな勢いで、応募もしてないのにインターンシップを申し込みましたね……いま思うと、本当に痛々しいのですが(笑)。その意味不明な熱意を買っていただき、インターンを経て就職することになりました。

――環境も変わり心機一転、メディアの編集を始められるんですね?
いや、エディターとして入社する予定だったんですけど、配属されたのは制作事業部だったんです。大学時代の経験があって、クリエイティブ業界の方々ともコネクションができていたし、SNSでの発信力もついてきて……結構、天狗になってたんだと思います。それを社長に見透かされていたんですね。
だから「まずは、伸びしろを伸ばすような仕事をしよう」と言われて、記事広告などでは関わらないような数千万円以上のWebサイト制作の案件に携わったりしました。医療や金融、美容、学習支援など、様々なクライアントの受託制作をやらせてもらいました。正直それまでは、何かをつくればSNSで評判になるし、自信があったんです。でも今度は、寝る暇もないくらい忙しいのにバズらない。受託仕事ばっかりなので、休日にクリエイター仲間に会っても、あんまり「私はいまこれやってる」って言えなくて、いきなり自信喪失です。

子どもの頃にHTMLは触ってたけど、2012年のCSSやjQueryは本当に難しくて、でも知っていかなきゃいけないから、胃が痛い毎日でした。でもそのときに、コーポレートサイトもLPもWebメディアもバナーも一通りの制作が経験できて良かったです。他にもSNS施策やマーケティングの基礎知識、SEO対策なんかにも触れる機会が得られたのは、本当に貴重な3年間でした。
ライティングの技術だけだと「文章は良いのに、なぜ広まらないのか?」と頭を抱えそうなところですが、Webの仕組みがわかったおかげで、技術的な広め方もある程度習得できたんです。だから本当に、Webディレクターをやって良かったですね。CINRAの社長には一番感謝しています。

――ある意味修行のような時間ですね。
はい。意義ある修行をできて、本当に良かったです。それに、会社員としての経験があるから、いまもクライアントに無責任なことが言えないんですよね。大きな会社の仕組みを知らずに「これ、なんでこんなに時間かかるんですか?」なんて言ってしまうと相手をイラッとさせてしまう。仕組みを知った上でより良い改善案を提案できれば、本質的に変わっていくかもしれません。会社員の経験があって良かったです。

――その後の変化が気になりますね。

後編につづく。

    UPDATE:
    次代を創るプロフェッショナル
    milieu編集長
    塩谷舞

    塩谷 舞 Mai Shiotani

    塩谷舞(しおたに・まい)
    「milieu」 編集長。1988年大阪・千里生まれ。京都市立芸術大学 美術学部 総合芸術学科卒業。大学時代にアートマガジンSHAKE ART!を創刊、展覧会のキュレーションやメディア運営を行う。2012年に株式会社CINRAに入社、Webディレクター・PRを経て2015年からフリーランス。執筆・司会業などを行う。THE BAKE MAGAZINE編集長、DemoDay.Tokyoオーガナイザーなども兼任。インターネットが大好き。